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「源氏物語」の作者の意図を探る~「桐壺一家」と「明石一家」の「死」と「生」の視点から~

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「源氏物語」の作者の意図を探る
~「桐壺一家」と「明石一家」の「死」と「生」の視点から~

田村 惠子

2016年3月國學院大學北海道短期大学部国文学会 滝川国文第32号掲載

源氏物語絵巻

はじめに

 『源氏物語』(以下『源氏』とする)中、第一部本伝系に登場する女性たち(明石の君・紫の上・斎宮・花散里)に対して「数まふ」という語を使用している。この語が女性たちのその時の心情を表わし、またその意味するところが実行されていく。それによって、彼女たちが光源氏直系の血筋に関わるという展開に導いている。前稿(注1)では、「数まふ」の使用から、彼女たちの存在が、光源氏の栄華と光源氏の皇統を作り上げていくために必要不可欠であることを明らかにした。物語中に登場する他の女性たちとは、その存在意義は全く異なっているのである。そこには光源氏の実子を産むか否かが大きなポイントであった。その結果光源氏の子を産むことのなかった紫の上と花散里が、それぞれ光源氏の子である明石の姫君と夕霧を養女・養子とする必要を生じたのである。

 また、『源氏』では、主人公光源氏を産んだ桐壺更衣、光源氏の実子夕霧を産んだ葵の上、光源氏の正妻の若紫(紫の上)を産んだ姫君は、共に自分の子をこの世に残して早逝し、早ばやと物語から退場している。そのために子の養育を母親に代わって引き受ける存在が重要であった。桐壺更衣の母北の方・明石の尼君(明石の君の母)と大宮(葵の上の母)がその役割を果たしているのである。

 しかし、明石一家にはこの「死」は設定されていない。明石の君は光源氏の実子明石の姫君を産んでいるにもかかわらず、桐壺更衣・葵の上とは違い、死による物語からの退場はしていないのである。明石の君の両親である明石の入道・明石の尼君も死については不明。作者はなぜ明石一家には「死」という場面を語らないのか。それは何を示唆しているのかを明らかにすることによって、作者の意図に迫りたい。

(注1) 田村恵子「滝川国文」第三十号(平26年)國學院大学北海道短期大学部国文学会

1.桐壺一家と明石一家(その一)

 明石の入道とその娘の初出は、「若紫」巻冒頭北山の場面(P275)においてである。光源氏の供人播磨守の子良清が語った地元の噂話中であった。正面きっての登場ではないが、その後の物語への登場と展開を読み手に予感させている。光源氏の須磨退去を機に明石の君をめぐる明石の入道一家との関わりが始まる以前に、作者は明石の君に特別な役割があることを示唆し、伏線を敷いたのである。

 実は、光源氏と明石の入道が遠戚であった。そのことを、明石の入道自身が、光源氏が須磨に来たことを聞いた須磨巻で妻の明石の尼君に次のように語っている。

故母御息所は、おのがをぢにものしたまひし按察大納言のむすめなり。(須磨P20)

 母御息所とは、光源氏の母の桐壺更衣である。入道の亡父は大臣の位を保っていたほどで(明石P235)桐壺更衣の父故按察大納言とは兄弟であることが明らかにされている。つまり、光源氏と明石一家は血縁なのである。次の場面はこの血縁である故按察大納言と明石の入道がそれぞれの娘について語っている部分である。

A.生まれし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、ただ、『この人の宮仕の本意、かならず遂げさせたてまつれ。我亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、かへすがへす諫めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人もなき交らひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、~(桐壺P106)

B.これは生まれし時より頼むところなんはべる。いかにして都の貴き人に奉らんと思ふ心深きにより、ほどほどにつけて、あまたの人のそねみを負ひ、身のためからき目をみるをりをりも多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず。『命の限りはせばき衣にもはぐくみはべりなむ。かくながら見捨てはべりなば、浪の中にもまじり失せね』となん掟てはべる」~(明石P235)

 Aはいわゆる「野分」の段にある。桐壺更衣が亡くなった後、母北の方が娘桐壺更衣入内の経緯が亡き夫の「遺言」であることを語った場面である。桐壺更衣の父が娘に対して、「生まれし時より、思ふ心ありし人(生まれました時から望みをかけていた人)」(傍線部)であったこと、そして自分の死後もその望みを必ず実行するようにと「遺言」を残したと言う。母北の方はこの「遺言」をしっかりと守り実行したわけである。しかし、桐壺更衣は強い後見人がいなかった。大納言である父が亡くなったので、更衣として入内する他なく、帝一人が頼りであった。その上、桐壺更衣は帝の異例の寵愛を一身に受けることとなったので、周囲の嫉妬・いじめを受け、それに対して逃れる術はなかった。遂には更衣は死に至った。更衣の死に際の言葉「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」(桐壺)と母北の方(A)によって、その「遺言」は桐壺帝の知るところとなるのである。

 Bは、明石の入道が、明石に連れてきた光源氏に対して語った場面である。「これは生まれし時より頼むところなんはべる」(この娘は生まれた時から将来に期待を寄せておるところがあります)」(傍線部)と語り、どうにかして都の尊い方にさしあげようとの深い決意があることを打ち明けている。

 このA・Bの傍線部分は、縁者である桐壺更衣と明石の君のそれぞれの父親が、娘に対して生まれた時から持っていた将来の期待について語っている点で共通している。その期待とは、帝(A)、都の尊い人(B)との結婚であった。Bの結婚の具体的内容は、明石の入道が後に孫の明石の女御の若宮出産を伝え聞き、娘明石の御方に宛てた自身の手紙の内容から分かることになる。そこで、明石の君誕生の際に、明石女御が国の母(皇后)となる住吉の神の端夢を見たことについて語っている(若菜上)からである。つまり、一家の血が天皇家に受け継がれていくことを思っていたのであろう。しかし、Bの場面では、まだその夢告の存在自体も内容も明らかにされていない。明石の入道のBの決意に基づくものは、入道ただ一人の胸の内にあったのである。明石の入道自身が光源氏に18年間住吉の神に頼り、願を立てていたことを語っている。(明石巻)したがって、明石の入道にとって、光源氏が都より須磨に退去となり、しかも、光源氏が帝の息子であり、自分たちと縁戚であることが、ますます住吉の神の導きであると確信したに違いない。明石の入道の「都の尊き人」とは、光源氏を指していると言えるのである。

 また、物語の上では、Aの更衣の父の「遺言」の存在が明らかになったのは、桐壺更衣の死後であり、桐壺更衣の帝の御子、光源氏の誕生をもたらすという役割が果たされた後であった。父按察大納言の「死」があったからこそ「遺言」が残され、母北の方が守り実行した。娘桐壺更衣の「死」があったからこそ、帝が「遺言」を知り、更衣の最後の言葉(桐壺)を理解した。しかし、光源氏自身は自分の誕生が、祖父が残した「遺言」が関わっているものであるとは知る由もなく、父桐壺帝は、高麗の相人が光源氏が帝王となると世が乱れるかもしれないと見立てたことから、光源氏を臣下に降下し、帝位に就くことはできない立場になっていた。

 一方、Bの結婚の根拠も、若菜上の明石の入道の最後の手紙(若菜上P104)によって、入道の夢告の具体的内容が明らかになる。その手紙は、光源氏と明石の君の間に誕生した明石の姫君が今上帝の女御になり、男御子を産んだという事実を確認した後に書かれている。明石の入道が自らの役割を全て終えた後に、その事情が明かされているという点では、作者は桐壺一家にも明石の一家にも、最後に行動の理由を明かすという同じ手法をとっているのだということがわかる。更に、桐壺更衣が宮中でただ一人頼れたのが帝であったのに対し、明石一家にとっても、入道の夢告の成就は光源氏ただ一人が望みであった。このように、作者は、その記述においても共通した手法でこの二つの家族の物語を展開をしていることがわかる。

 しかし、そこで、一つの相違点が浮かび上がっている。明石の入道には、桐壺更衣の父のようなはっきりとした「死」の場面が設定はされていないということである。先に述べたB二重傍線部は、若紫巻で光源氏と供人良清との間で交わされた会話の中で、既に噂話として語られている。これは、世間で「かの入道の遺言」(若紫巻)と言われているが、これは本来の意味での「遺言」ではない。明石の入道自身は亡くなっていないからである。この入道が光源氏と関わっていく行動の根本的理由は、先に述べたように入道自身が娘明石の御方に宛てた最後の手紙によって明らかにされる。その手紙には、役目を果たした明石の入道の身の振り方としての物語からの退場も記されているのである。この手紙が真の意味での明石の入道の「遺言」というべきものであろう。しかし、ここにも「死」の予感はあるものの、「死」そのものの場面ではない。では、明石の入道を始めとする明石一家について、桐壺一家にみる「死」と「遺言」、そして、それらによって物語の新たな進展をみるという手法を取らないで、どのような方法を使い、B黄色マーカー部の明石の入道の娘に対する強い期待を実現していったのか。また、作者が父桐壺帝によって皇統から外された光源氏が、再び天皇の血筋に関わっていくために、明石一家にどのような役割を課したのかを考察する。

2.明石の尼君の役割

 前述したように、母北の方は故按察大納言の「遺言」を守ることによって娘桐壺更衣の入内を果たし、その結果光源氏が誕生した。その「遺言」の存在と内容を帝に明かすと「死」によって物語から退場している。そして、物語は先帝の四の宮である藤壺の登場を迎えるである。帝に仕える典侍から藤壺が亡き桐壺更衣に生き写しであると聞いた桐壺帝は、心引かれ入内を申し入れるのだが、藤壺の母である母后は娘藤壺の入内について、次のように語っている。

C.「あな恐ろしや、春宮の女御のいとさがなくて、桐壺更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう」と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せたまひぬ。(桐壺P118)

 母后は、「あな恐ろしや(まあ恐ろしいこと)」(傍線部)と言って、娘藤壺の桐壺帝への入内を快く思わなかった。その理由は、桐壺更衣が生前に受けた仕打ちが、我が子にも及ぶのではないかと用心したのだ。しかし、波線部を見ると、入内させる決心もつかないまま亡くなってしまったとある。実にあっけない物語からの退場である。母后の登場は、子を思うこの短い部分のみである。このように入内に反対する母の存在は、物語の進展を妨げることから、早々作者の手法による「死」ぬことで物語から退場させたのであろう。それでも尚、この母后の短い登場と退場が必要だったのは、母の死の後、娘藤壺の状況を「心細きさまにおはす」(桐壺P118・P119)と二度繰り返して記述することで、藤壺の置かれている状況が、頼りないものであることを効果的に表現している。母后の「死」は、娘藤壺の心情を心細い状態にし、藤壺は帝や兄の兵部卿宮などの勧めにより入内することになる。そして物語は次へと進展するのである。

 次は、明石の君の母である明石の尼君の場合である。

D.「あなかたはや。京の人の語るを聞けば、やむごとなき御妻ども、いと多く持ちたまひて、そのあまり、忍び忍び帝の御妻をさへ過ちたまひて、かくも騒がれたまふなる人は、まさにかくあやしき山がつを、心とどめたまひてむや」と言う。(須磨P202)

 これは、明石の尼君が会話文で初めて登場した場面である。光源氏の須磨への退去を知った明石の入道が、この機会に娘を光源氏に奉じる心積もりがあることを、妻明石の尼君に語ったことについて返答をしている。

 明石の尼君は入道の言葉に対して、「あなかたはや(まあばかなこと)」(傍線部)と言っている。都にあっての光源氏の妻たちや女性たちとの関わりについての評判を挙げて、こんな卑しい田舎者に心を留めるはずがないと、入道の思惑に賛同していない。尼君のこの言葉は、物語の進行と相反し、物語の次への展開を妨げる要因となる。よって、Cの藤壺の母后の場合と同様に、「死」、そして物語からの退場という方法が取られて、物語が入道の意思の通り進展しても良いはずである。しかし、明石の尼君には、そのような場面も展開もない。このことから次の二つの点が考えられる。一つは、尼君の存在は、夫入道の言うことが馬鹿げていて、娘明石の君と光源氏の結婚に対して入道と同様の思いがなくても、全く物語の進行の妨げにはならないということである。明石の入道の決意は妻の反対にも屈しないものであった。もう一つは、明石の尼君にはまだ果たされていない別の役割があることを示している。尼君に求められたのは桐壺更衣とその母のように役割を果たして「死」ぬことではなく、また藤壺の母后のように役割を果たすために「死」ぬことではなかった。明石の尼君には「生」きることで、果たされなければならない役割があったのだと考えることができる。そこで明石の尼君の役割とは何かを検証する。

 明石の尼君は、祖父が中務宮という親王(松風P388)で、高貴な血筋を持つ女性である。物語の中で明石の君が生まれてから母として娘にずっと寄り添って登場している。明石では一人娘の教育に余念がなく大切に育て、光源氏との結婚に際しては娘が悲しむ結果になりはしないかと案じながらも、光源氏の勧めに従って明石の君と孫明石の姫君が京へ上る時に同行している。京では大堰の屋敷に共に住み、光源氏の六条院へ明石の君が移り住む時にも一緒に行動を共にしている。物語の一連の流れの主体は明石の君であるが、明石の尼君は終止娘の側にいて娘を案じ、支え、見守っているのだ。その生涯において特に光源氏と明石の君の結婚以降に注目すると、尼君が表立って記述される場面は次の四場面である。

①.娘明石の君に対して、光源氏が明石の姫君を紫の上の養女として養育してはどうかという進言に従うように説得する。(薄雲P419)

②.今上帝の女御となった孫明石女御に、女御の出生時の事情と入道を始めとする明石一家について明かす。(若菜上P96~100)

③.夫明石の入道の最後の手紙を読み、夫との今生の別れに、その思いを娘明石の御方に語る。(若菜上P111~112)

④.光源氏の一行と共に住吉へ参詣する。(入道の願ほどきの願いによる) (若菜下P167)

 ①の場面では、明石の君は、光源氏の姫君を紫の上の養女とするために手放してはという進言(光源氏は姫君が将来入内するためには、母明石の君の身分が低いため、紫の上(父は兵部卿宮)の養女として養育することを考えていた)に決心がつかない。その理由は、母として我が子を手放すことの辛さや悲しさと、女として光源氏の寵愛が薄れるのではないかという二つの思いで、思い悩んでいたからだ。そこで、母である尼君が、明石の君に次のように語っている。

 尼君、思ひやり深き人にて尼君「あぢきなし。見たてまつらざらむことはいと胸痛かりぬべけれど、つひにこの御ためによかるべからんことをこそ、思はめ。浅く思してのたまふことにはあらじ。ただうち頼みきこえて、渡したてまつりたまひてよ。母方からこそ、帝の御子もきはぎはにおはすめれ。この大臣の君の、世に二つなき御ありさまながら世に仕へたまふは、故大納言の、いま一階なり劣りたまひて、更衣腹と言はれたまひしけぢめにこそはおはすめれ。ましてただ人は、なずらふべきことにもあらず。また、親王たち、大臣の御腹といへど、なほさし向かひたる劣りの所には、人も思ひおとし、親の御もてなしもえ等しからぬものなり。まして、これは、やむごとなき御方々にかかる人出でものしたまはば、こよなく消たれたまひなむ。ほどほどにつけて、親にも一ふしもてかしづかれぬる人こそ、やがておとしめられぬはじめとはなれ。御袴着のほども、いみじき心を尽くすとも、かかる深山隠れにては何のはえかあらむ。ただまかせきこえたまひて、もてなしきこえたまはむありさまをも聞きたまへ」と教ふ。(薄雲P419~420)

 この場面で尼君は、「思ひやり深き人(考えの深い人)」(傍線部)と前置きされている。尼君は、まず光源氏自身の出生の例を挙げて娘明石の君に説得している。帝の御子である光源氏さえも更衣腹と言われ、臣下となり身分の差があるという事実を語っているのだ。次に母方の身分の差を挙げている。「光源氏にとって、もっと尊い妻たちに御子ができたら比較にならないほど圧倒されてしまう立場の自分達であるから、姫君のために父の光源氏におまかせして、あちらでどのように姫君を扱うのか、その様子を見ていらっしゃい」と、説き聞かせているのだった。このような尼君の姫君の父(光源氏)を例にあげた理路整然とした説得で、明石の君は光源氏の勧めに従う決心をするのである。遂に明石の君は身を切られるような思いでありながらも、紫の上の養女にすることが姫君のために良いに違いないと、姫君を手放すことにするのであった。この尼君の説得の場面は、尼君の「思ひやり深」さをを如実に表わしている。そして、これが物語が次の段階へと進展していくための大きなステップになっていることがわかる。明石の尼君の思慮深さが祖母の役割として、しっかり物語の進行に一役買っていると言えるのである。

 ②の場面では、尼君は「かの大尼君も、今はこよなきほけ人」とあり、前項①の時点と比べると年老いて(年齢が六十五歳位)ほうけた人と書かれている。これは月日の経過がはっきりわかる記述である。ここでの尼君はただただ可愛い孫娘明石女御の側に侍り、夢のような心地なのだとある。尼君のこのような心情を表す描写とその理由を見てみることにしよう。

ア.いと涙がち
     女御の付き添いをして、うれしさに耐えかねているため

イ.ほろほろと泣けば
     若君(女御)が光源氏と母の縁を繋いだことに、宿縁が身にしみているため

ウ.泣き腫れたるけしき
     女御に昔話をしたことによる

エ.涙はえとどめず
     女御をじつにご立派でかわいい方と思っているため

 このア~エの描写は「若菜上」巻における、明石女御との対面の場面での尼君の様子である。尼君は、感激のあまり終始涙を流している。作者は、尼君が明石女御と対面して夢心地である心情を「泣く」という行為で統一している。「涙」を描写することで心情を繰り返し強調しているのだ。その時、尼君が明石女御に話した内容は次の通りである。

 「今は、とて京へ上りたまひしに、誰も誰も心をまどはして、今は限り、かばかりの契りにこそはありけれと嘆きしを、若君のかくひき助けたまへる御宿世のいみじくかなしきこと」(若菜上P97)

 ここでは、父母光源氏と明石の君の縁について語っている。光源氏が明石より都へ帰還することになったとき、光源氏との縁もこれまでかと思われ嘆いたが、若君の誕生が絆となった。これも前世からの宿縁があったのだと言っている。

 明石女御は、母の身分が少し劣った家柄の人であるとわかっていながらも、自分が都を離れた田舎で出生し、その事情について知らされていなかった。(若菜上P98)母明石の御方の配慮だった。その配慮とは、

 「いとほしきことどもを聞こえたまひて、思し乱るるにや。今はかばかりと御位を極めたまはん世に聞こえも知らせんとこそ思へ、口惜しく思し棄つべきにはあらねど、いといとほしく心おとりしたまふらん」とおぼゆ。(若菜上P99)

とある。明石女御が自分の出生の真実を知ることで、それが負い目になるのではということであった。明石女御は尼君との会話により、すっかり自分の身の上を知るに至ったのである。これは冷泉帝や薫の例から考えると必要なことであったと思われる。(ここでは論述しない)このように「老いほうけた人」となった尼君の感情の高ぶりがあったからこそ、母明石の御方が娘明石女御にまだ知らせたくなかった事実を容易に語らせることができたのである。作者はこの年老いてほうけていると前置きした尼君にそれを語らせたのだ。これは、作者の意図する尼君の役割の一つだったのである。

 そして、次に明石の尼君・明石の御方・明石女御という祖母・母・娘の女系三代がその場に揃い、

尼君「老の波かひある浦に立ちいでてしほたるるあまを誰かとがめむ」

明石女御「しほたるるあまを波路のしるべにてたづねも見ばや浜のとやまを」

明石の御方「世をすててあかしの浦にすむ人も心のやみははるけしもせじ」

と、それぞれの思いを歌で詠み合う光景を作り出している。この場面は、明石の尼君の『源氏』における存在意義を象徴的に表わしている。なぜならば、この女性たち三代が家族として一同に会する場面は、明石の尼君の高貴な血筋(中務宮の孫)が、臣下に下ったとは言え光源氏の皇族の血と相まって再び天皇家に伝わっていく系図を示している場面と捉えることができるからである。その場を作り出すきっかけになったのが明石の尼君の存在なのである。

 ③の場面では、明石の入道を回顧している。入道と尼君はお互いを頼りにし、信じ合う夫婦愛の深い仲だったこと。そうであるのに、この世で離れて住まなくてはならなくなったこと。そして、二度と会うこともなく、この世から別れてしまうことが残念であるという心情を語っている。

 ④の場面では、光源氏の権勢の表われでもある盛大な住吉参詣にあって、悲境の地(須磨・明石での暮らし)に沈んでいた時の有様を思う光源氏と、当時身近にいて光源氏の状況を理解できる尼君が歌を詠みあっている。今は言い尽くせない程の繁栄振りだが、光源氏は明石の入道だけがその場にいないことが残念に思われるとある。普通ではできない入道の決意(第一章B)がもたらした結果に、夫と娘を支え、今は光源氏の栄華の中の一人としての尼君は、人々から「幸い人」と呼ばれたとある。

 これら四つの場面の中における尼君の立ち位置をみると、

①の場面は、明石の姫君を紫の上の養女にするよう助言していることから、光源氏と娘明石の御方との間である。明石の尼君の働きにより、結局は紫の上が明石の姫君を養女として得ることになった。

②の場面では、明石女御が自分の家族について知る結果になることから、孫明石女御と娘明石の御方との間に入って、双方を結びつける役割をしていることがわかる。明石女御(明石の姫君)は祖父明石の入道についてと自分の出生の事情をはっきりと知ることになったのである。

③の場面では、尼君は夫婦の有り様を語ることで妻として支え、支えられてきた夫入道との絆を示している。

④の場面では、光源氏が須磨・明石の地に流離していた時の思いを分かち合える存在であった。

 以上の尼君の役割の検証から、物語の中で尼君の存在は、こうした家族を支え、思いやり、人と人との縁や絆を結びつける役割を果たしていることがわかるのである。作者には、尼君の役割に桐壺一家や藤壺の母に見られる「死」による退場の場面を用いる意図はなかったのだ。尼君には「生」きていなければ果たせない役割を担わせたのである。それは、光源氏の血筋が天皇家に受け継がれて行くために必要不可欠な役割であった。陰から光源氏の血筋が皇統に再び関わるのを支えたのである。この「おもひやり深き人」(薄雲)から「こよなきほけ人」(若菜上)となり、最後に「幸い人」(若菜下)と呼ばれた明石の尼君の存在と役割は大きく、これにより物語をより一層深みのあるものにしたのだと考えることができるのである。

3.明石の入道の役割

 明石の入道はなぜ出家者として設定されたのか。出家とは家を出て仏門に入ること、俗世間を捨てて仏道修行に入ること(広辞苑による)である。娘を「都の貴き人に奉らんと思」っていた入道は、自分が見た「夢告」を一人胸の内に秘め、住吉の明神に願い続け、明石の家の繁栄を願っていた。この執着と行動は、それ自体が出家者たる者の道に反していることになるのではないか?あるいは、例えその望みがかなったとしても、出家者としての自分に栄華の恩恵を期待していたのか?

 そこで、その「夢告」がどんなのであったのか。また、その後の事情を記している入道の手紙を検証してみることにする。

 わがおもと生まれたまはんとせしその年の二月のその夜の夢に見しやう、みづから須弥の山を右の手に捧げたり、山の左右より、月日の光さやかにさし出でて世を照らす、

みづからは、山の下の陰に隠れて、その光にあたらず、山をば広き海に浮かべおきて、

 小さき舟に乗りて、西の方をさして漕ぎゆく、となん見はべりし。

 夢さめて、朝より、数ならぬ身に頼むところ出で来ながら、何事につけてか、さるいかめしきことをば待ち出でなむ、と心の中に思ひはべしを、そのころより孕まれたまひにしこなた、俗の方の書を見はべりしにも、また内教の心を尋ぬる中にも、夢を信ずべきこと多くはべりしかば、賤しき懐の中にも、かたじけなく思ひいたづきたてまつりしかど、力及ばぬ身に思うたまへかねてなむ、かかる道におもむきはべりにし。

 またこの国のことに沈みはべりて、老の波にさらにたち返らじと思ひとぢめて、この浦に年ごろはべりしほども、わが身を頼むことに思ひきこえはべりしかなむ、心ひとつに多くの願を立てはべりし。(若菜上P106~107)

 これは、第一章で触れた明石の入道の最後の手紙の中に記された内容である。本稿底本の頭注によると、この「夢」の意味は「右」は明石の君を指し、「山の左右」は娘明石女御が中宮になり、孫(若宮)が東宮になること。入道は出家遁世して中宮や東宮の徳を蒙らない。般若(知恵)の舟に棹さして、生死の海を渡って、西方極楽往生の岸に到着するということであるとある。この「夢」を見た後の入道のとった行動は、次のように記述されている。

ⅰ、将来の望みが生まれてきたが、何によって大層な幸運を待ちもうけることがでいるのかを思った。

ⅱ、明石の君が尼君の腹に宿った。

ⅲ、俗世間の書物、仏教の書物を読み、真意を探った結果、夢を信じてよいとあった。

ⅳ、私は賤しい者ながら娘を大事に育てていたが、力不足の身で思案した。

ⅴ、田舎に下って、この国のことにかかずらう身に落ちぶれた。

ⅵ、老いの身でいまさら再び都には帰るまいと望みをたった。

ⅶ、この浦で娘を頼みとして期待して、自分一人で多くの願を立てた。

 明石の入道が端夢を見たのは、入道が都で近衛中将(従四位下)の地位にあったときであり、手紙によると明石の君が生まれるその年の二月の夜とある。夢告を見た後に尼君の懐妊を知った。娘が生まれ、大事に養育していたが、思案し、自ら地位を捨てて国司となって播磨に下っている。力及ばぬ身とは、松風巻で明石の君が明石の浦から都へ出発する際に父と交わした会話の中でも

 「世の中を棄てはじめしに、かかる他の国に思ひ下りはべりしことども、ただ君の御ためと、思ふように明け暮れの御かしづきも心にかなふやうもや、と思ひたまへたちしかど、身のつたなかりける際の思ひしらるること多かりしかば、さらに都に帰りて、古受領の沈めるたぐひにて、貧しき家の蓬葎、もとのありさまあらたむることもないきものから、公私にをこがましき名を弘めて、親の御亡き影を辱づかしめむことのいみじさになむ、やがて世を棄てつる門出なりけり、と人にも知られにしを、その方につけては、よう思ひ放ちけり、と思ひかべるに~(松風P394)

と、入道自身が話している。田舎に下った理由は、力及ばぬ身に思うたまへかねてなむ、かかる道におもむきはべりにしとあるように、都で官職についたまま娘を養育するには、思うような養育ができないため、思案の結果、ただ君の御ために受領(地方の受領は経済的に豊かであった)となったという。これは、手紙の内容と一致している。入道は自ら都に帰る意思はないことも明らかにしているが、入道のこの行動は、周囲の人々に大臣だった親の名を恥ずかしめ、落ちぶれて出家をしたのだと思われた(傍線部)ことも話している。そして、明石の入道は若紫巻で出家者となっていることがわかる。入道の行動は「夢」を見た後に、その「夢告」を中心にして動き出しているのだ。しかし、この「夢告」は明石の入道以外の人物は、入道自身が明かすまで誰も知らなかったという点に着目したい。この考察を進めるために、まず、明石の入道について、今井源衛氏は、その著である(注2)「源氏物語の研究」の中で「新没落貴族」(堂上から陥落して既に久しく、「受領とて品定まれる際」の無気力と惰性とに生きた人々ではなく、中央から流離してなお日も浅く、今なお記憶に新しい父祖の栄光と、一方現実の悲境との不調和に身を裂かれながら、その苦痛と焦慮との中に、再び昔日の権勢を取り戻そうと、はげしい願いに燃える)として
(注2)今井源衛「源氏物語の研究(明石上について)」1962年未来社発行

 上流貴族の世界から閉め出されながら、なお、「古受領の沈めるたぐひ」になり切れない中途半端な気持のやりきれなさを、思い切った離京によって解決し、それによって父祖の―また自身の誉れと矜りとを守ろうとしたものなのであった。(中略)貴族的自負へのやるせない郷愁、或はいわばその自己回復への意思が、彼を内から促した行為として受け取ったほうがよいであろう。

と、述べておられる。

 また、(注3)伊藤博氏も国文学ー解釈と教材の研究源氏物語人物像明石の君の中で、

 父は大臣であり、光源氏の母方ともゆかりがあるのだが、宿世つたなく世のひが者で受領にまで身を落とした注二「新没落貴族」たる入道は、娘を介して再び上流階級に失地回復を計りたいという強力な宿望に貫かれているのだ。(中略)それが(夢告ー田村補)かれの上流社会への復帰を願う欲望とまさに一致していたゆえに、かれの夢にかける執着は強固なものに生育していった。それは明石の地に沈淪してもなおかわらず妄想というべきものに化していったようだ。
(注3)伊藤博 「国文学ー解釈と教材の研究」源氏物語人物像明石の君(昭和43・學燈社)

と、父入道についても触れておられ、両氏とも明石の入道自身の胸中にある強烈な出世回復願望を述べておられる。しかし、はたして入道が「夢告」を見る前に、どのくらいの出世回復願望を持っていたのかは不明である。両氏は「夢告」があった以前からかれの上流社会への復帰を願う欲望・自己回復への意思を説いておられるが、「夢告」が入道のそれに拍車を掛けたと捉えるには、「夢告」を見た以後の入道の行動は矛盾する。伊藤氏は入道が「世のひが者」(波線部)であったため、都での身分を捨て受領に身を落としたとしている。「ひがもの」とは心のねじれた者・ひねくれ者・変わり者という意味である。若紫巻で光源氏の供人の良清が語った世間話で入道について

 「大臣の後にて、出て立ちもすべかりける人の、世のひがものにて、交らひもせず、近衛中将を棄てて、申し賜はれりける司なれど、~」(若紫P276)

と、あるのは、世間の人々は、入道の行動や言動、「都の尊い人」との結婚を望む真意が「夢告」に基づいているということを、誰もわからなかったためなのだ。明石の入道は「ひがもの」であるから官職を棄てたのではなく、ⅳ力不足の身で思案した結果、田舎に下ったのだ。従って、世間の人々は、自分たちが理解できない入道の行いや言動を見聞きして「ひがもの」と噂したのではないか。このことについて、若菜上で父の手紙を読んだ明石の君も

 この夢語を、かつは行く先頼もしく「さらば、ひが心にてわが身をさしもあるまじきさまにあくがらしたまふ、と中ごろ思ひただよはれしことは、かくはかなき夢に頼みをかけて、心高くものしたまふなりけり」とかつがつ思ひあはせたまふ。(若菜上P111)

と語っており、「父のひが心」と思われた行動も、実は「夢」に望みをかけていたせいであったことを理解している。(傍線部)また、明石の尼君も入道の手紙を読んで、夫入道がまだ俗人であったころでさえ、普通の人と違った気性であったことと世をすねていたようであったと回想してはいるが、尼君の言う「俗人であったころ」とはいつを指しているのか。「夢告」を受ける以前からの人柄であるのか、それ以降であるのかはっきりしていない。入道が地位を棄て自ら播磨に下り、出家して帰京と出世を望まなかった理由や身分不相応な娘の縁組を望んだことを、明石の入道の性質のせいのみにするのは妥当ではないと思う。明石の入道に対して「ひがもの」「ひが心」「ひがひがしき」と使われるのは、若紫2回、良清・明石2回、明石の尼君、地の文(乳母と母君)・澪標1回、光源氏・薄雲1回、光源氏・若菜上3回、明石の君、明石の尼君、光源氏で、明石の入道以外の人物(良清・明石の君・明石の尼君・光源氏)によって会話文、及び心中を表している文の中で使われているからだ。地の文である1箇所も乳母と母君の会話を補足している。光源氏自身も入道の最後の手紙を読んで、

 「かの先祖の大臣は、いと賢くあり難き心ざしを尽くして朝廷に仕うまつりたまひけるほどに、ものの違ひ目ありて、その報いかく末はなきなりなど、人言ふめりしを
(中略)
 「あやしく、ひがひがしく、すずろに高き心ざしありと人も咎め、また、我ながらも、さるまじきふるまひを仮にてもするかな、と思ひしことは、~(若菜上P120)

と言っている。ここは、明石一家の身分が落ちぶれたこと、明石の入道が変に一癖ある人で、むやみに高い望みを持っていたと、人が言っていた・人もとやかく言(二重傍線部)っていたと言い、そして光源氏自身もそう思っていたと語っているのである。光源氏も世間で噂されている入道の評判を信じた一人だったことがわかる。「夢告」の存在を知らない者たち(明石の尼君・明石の君も含む)にとっては、入道の理解しがたい行動を見て「ひがもの」という性質に起因しているものと映ったのだろうし、そう受け取っていた。しかし、明石の入道の行いの全てが「夢告」を信じ、それに基づいていたことを知るに至って、明石の入道の一連の行いに納得がいったのである。明石の入道自身は自分を「賤しい者(身分の低い者)」(ⅳ傍線部)と言っているだけなのだ。入道の人柄のついての描写は「ひがもの」「ひが心」のみではないことを、今井氏も先あげた「源氏物語の研究」で述べておられる。

 作者は読者に、明石の入道を取り巻く登場人物たちを使ってに、入道の行動や身分不相応な高すぎる望みを理解できない側の人物が、入道を見る時の噂や評判によって、入道をそのような人物であると印象づけたのだ。それは、作者が構想した光源氏の流離譚のためにも、明石の入道が「ひがもの」であるとすることが、明石の入道の普通では考えられない行動の矛盾さを補い、光源氏との出会いに結び付けるために必要だったのではないだろうかと思う。全ては、入道の手紙の検証ⅰ~ⅶから「夢告」によって発した自らの判断であったことがわかる。明石の入道の「夢告」を受けた以降の行動の真相は、「ひがもの」という性質によるものではなく、「夢告」による入道の強い覚悟だったのである。

 ともかく、明石の入道自身は、自らの覚悟によって行ってきたことに対する世間の風評を周囲の噂のままにした。(松風傍線部)

 明石の浦にあっても伊藤氏の言われる「娘を介して再び上流階級に失地回復を計りたいという強力な欲望に貫かれ、」「かれの上流社会への復帰を願う欲望」があったのだとしたら、そもそも出家する必要はないのではないだろうか。もちろん「夢告」は明石一家が王統に関わることを意味している。しかし、伊藤氏の言われる入道の「欲望」と「出家」は相容れないものなのである。

 また、手紙の内容項目ⅵ、いまさら再び都には帰るまいと望みをたったとあるのだから、今井氏の言われる「新没落貴族」として自己回復への意思があったとすれば、これも出家は相応しくないのではないかと思うし、「夢告」の成就の前に出家者になったことが不自然である。両氏が言われるとおり、入道が強い上流階級への出世という欲望にかられていたのであれば、入道は自分が受けた予言の中の自分の位置、役割を深く理解していなかったものと考えられるのだ。なぜならば、この「夢」のお告げの中に、はっきりと私は山の下の陰に隠れて、その光には当たりませんと書かれているからである。

 なぜ、「夢」のお告げに、「みづからは、山の陰に隠れて、その光にあたらず」(二重傍線部)という内容があったのであろうか。入道が上流階級への強い自己回復意識を持っていたとしたら、この夢告は入道自身のそれを否定するものではないだろうか。明石の入道に求められたことは「夢告」を信じ、今後生まれてくる娘と子孫についてその夢が予告していることの実現のために導き働くことで、自らの上流階級への復帰回復ではなかったと考えるのである。明石の入道は自らの役割を充分理解していたのである。入道の真の意味での遺言というべき最後の手紙の内容には、これまでの自分の行動は、この夢告の実現のためであり、長年住吉の仏神にも願をかけていたとある。そして、自分の見た夢が成就したこと、住吉の仏神への願ほどきの依頼、今後の自分の身の処遇について記し、家族との別れを告げているのだ。ここで、はっきりと自らの役割を終えたことを宣言しているのである。これは、明石の入道が「夢告」の意味をしっかりと理解し、出家者として設定されていたからこそ可能であった。娘によって明石一家の血が王統に受け継がれていくことによって享受する栄華の恩恵に預からないことが「みづからは、山の陰に隠れて、その光にあたらず」なのであれば、そのような「欲望」を捨てた存在、つまり、それが「出家者」だっだのだと考える。

 作者には明石の入道そのものに、上流社会への復帰を願う欲望を持たせる意図はなかった。作者が明石の入道を出家者としたのは、明石の入道のこのような立場と役割を明確に示すためだったのだ。つまり、物語における明石の入道の存在と行動は、全て主人公光源氏を中心に構想されているのである。

 以上の考察から、作者は明石の入道に「死」と「遺言」ではなく「生」きて役割を果たすために「夢」によるお告げを与えた。世間と家族から「ひがもの」と言われながら、その普通ではないほどの覚悟によって、「夢告」が成就した時点、つまり、入内した孫明石女御の若宮の出産を伝え聞いたとき、明石の入道は自分の役割が終ったことを自覚した。そして、出家者として山深く身を隠し、人目を避け、家族と別離するという特異な方法を使って物語から退場させたのだと言えよう。明石の入道も役割が完全に遂行され、結果を見届けるまで「死」による退場はないのである。

4.明石の君の役割

 明石の入道は「夢告」の実現のために動かされていた。入道のこの役割は明白である。それにも関わらず、妻明石の尼君と娘明石の君は、この「夢告」の存在を知らなかったので、父入道の思いにはすぐに同意せず、積極的に動きはしなかった。しかし、この二人の役割もまた、入道の「夢」の成就(一家の血統が天皇家に受け継がれる)に向かって果たされていると言ってよかろう。しかも、それは光源氏ただ一人に対してのみ向けられたものである。明石の君は光源氏と結婚し、明石の姫君を産んだ。それだけではなく、この姫君が光源氏の血を引く者として帝の女御になり、男御子の誕生を迎えるのだ。『源氏』の中でこのような重要な役割を担っているのは明石の君のみである。明石一家は作者の意図に向かって「生」きて役割を果たすことが求められていたのである。明石の君についてもこのような役目を負った明石一家の一員として、両親と同様に生かされるべき存在であったのだ。従って、物語の中で「死」の場面は必要なかったのだと考えることができる。明石の御方に関する『源氏』中における最後の記述は次の通りである。

 二条院とて造り磨き、六条院の春の殿とて世にののしりし、玉の台も、ただ一人の末のためなりけりと見えて、明石の御方は、あまたの宮たちの御後見をしつつ、あつかひきこえたまへり。(匂宮P14)

 これは地の文である。六条院の春の趣の町に住んだ紫の上は、既に御法巻でこの世を去っており、主人公である光源氏の登場も幻巻までである。題名だけの雲隠によって「死」を暗示させ、物語から退場している。光源氏が妻たちのために建てた六条院には光源氏も紫の上もなく、今は明石の御方と明石中宮が産んだ親王たちが住まい、明石の御方は親王たちの後見をしながら世話をしているという。

 明石の君は、「夢告」に基づく父の強い決心と母の助けによって、光源氏と結婚して光源氏の娘を産んだ。そのことから光源氏は自らの子に関する予言「御子三人、帝、后必ず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」(澪標)を思い、姫君が将来入内し、后となるために、姫君の養育を紫の上に託すように勧めたのであった。明石の君は姫君のために従わざるおえなかった。しかし、その姫君の入内の際は、後見役を明石の御方とする紫の上の配慮により、実母として明石の姫君の世話をすることができるようになるのである。(藤裏葉P440~441)

 このように、明石の君は光源氏の死後も、光源氏の子孫たちを光源氏の代わりに見守るために、物語の中で生き続けているのである。物語の中で一貫して「数ならぬ身」という表現で、自らの身分や立場を自覚していた彼女も、最後には、やはり母尼君と同じように「幸い人」だったのではないだろうか。

5.「死」と「生」、「夢」と「遺言」の相関性と役割
        桐壺一家と明石一家(その2)

 では、第一章で述べた桐壺一家にもう一度視線を向け、血縁関係にある明石一家と比較してみよう。これまでの検証によって、桐壺一家にもたらされた「死」は明石一家にはなく、あるのは「生」きることで役割を果たすことである。桐壺一家の行いの背景には「遺言」があり、明石一家の行いの背景には「夢告」がある。そしてこれらは、それぞれが対応しているのである。この二点は全く別のもののようではあるが、実は密接な関係にあるからである。それは、次に挙げる光源氏の子に関する予言に関わっている。

 宿曜に「御子三人、帝、后必ず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」と、勘へ申したりしこと、さしてかまふなめり。(澪標P275)

 これは第四章でも触れた光源氏の子に関する占いによる予言である。物語の中に登場する光源氏の実子は、父桐壺帝と藤壺女御の間の子として生まれる冷泉帝、明石の君が産んだ明石の姫君と正妻葵の上との間に生まれた夕霧である。そして、物語の内容からすると、この予言の言うところの帝とは冷泉帝を指し、后とは明石の姫君、太政大臣は夕霧を指している。(本稿では夕霧については述べない)この占いが成就していく背景には「遺言」と「夢」が密接に関わっているのである。光源氏の誕生は桐壺一家の故按察大納言の「遺言」による桐壺更衣の入内から発していることは、既に第一章で述べた。しかし、光源氏が立坊し、帝になったのでは『源氏』は全く別の物語になっていただろう。作者は光源氏を主人公として物語を作り上げるために光源氏を臣籍に降下したのだ。桐壺一家の「遺言」は帝の御子は誕生したものの即位はできず、一見そこで断ち切られたように思われる。しかし、作者は全く別の物語展開、つまり、桐壺更衣亡き後、桐壺帝の女御として入内した藤壺との不義によって誕生する御子(冷泉帝)が即位することで、桐壺一家の「遺言」を実現し、天皇の血筋に加わったのだ。光源氏と父桐壺帝はそうとは知らず、作者の構想によって故按察大納言の「遺言」を受け継ぎ実行させられていったのだと言えるのである。しかし、これだけでは先に挙げた光源氏の子に関する予言は成就したと言えない。「后」が並び立つには桐壺一家の存在だけでは不十分なのである。そこで、重要になるのが明石一家なのであった。「后」が並び立つために、明石一家は存在しているのだ。明石の君は光源氏と結婚し、明石の姫君を産んだ。この姫君が光源氏の血を引く者として帝の女御になり、男御子の誕生を迎えるのだ。まさしく、明石の入道の予言のとおりであり、光源氏が公にできる正統な天皇家への姻戚関係である。この二つの一家は、第一章で述べた通り縁戚である。つまり、この同じ血統が双方で主人公光源氏の血統を作り上げているのだ。そのための手段が、桐壺一家には「死」を背景にした「遺言」であり、それは冷泉帝によって成し遂げられた。一方の明石一家には「生」きることと「夢告」であり、それは明石女御の男御子誕生と、その御子が東宮となることで成し遂げられている。遂に、光源氏の子に関する予言が実現に至るのであった。

 以上、光源氏が誕生し、臣籍に降下した光源氏の血筋が天皇家に受け継がれていくには、

 桐壺一家と明石一家の「死」と「生」という相反する、しかし、人生における二つの大きなテーマを柱として、その両面から支えられているのだとわかった。そして「遺言」と「夢」による予告は、作者の意図する光源氏の系譜の実現のための大事な手段としての役割があったのである。この「死」と「生」、「遺言」と「夢告」は、双方が揃って物語の骨格を成し、奇しくも(作者の構想ではあるが)桐壺と明石という同じ血族が、光源氏の血筋を支えるために機能しているのである。

おわりに

 『源氏』には光源氏が愛し、光源氏に関わる女性たちが多く登場する。その女性たちの陰には、彼女たちの母親たちが確かに存在している。そのことが、光源氏の物語にとってどのような役割があるのだろうかという思いが、なぜ明石一家には「死」の場面が設定されていないのかという疑問を生むこととなった。そこで、本稿で明石の君とその両親である明石の入道と尼君の『源氏』の物語展開に果たす役割の検証を試みた。

 光源氏の祖父故按察大納言の「この人(桐壺更衣)の宮仕の本意、かならず遂げさせたてまつれ。」(桐壺)という遺言が、若菜上の明石の入道の「みづから須弥の山を右の手に捧げたり、山の左右より、月日の光さやかにさし出でて世を照らす」という住吉明神の夢告と共に、光源氏自身の「御子三人、帝、后必ず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」(澪標)という予言とが見事に互いに重なり合って、物語の主たる骨格の一部を成しているのである。そこに、光源氏の血統がどのように皇統に引き継がれていくのかという、作者による壮大な構想を見ることができる。ここに、作者の物語構想と展開の巧みさを感じるのである。

 当時の人々が一般に占い(光源氏が臣籍に降下したのも高麗の相人の観相の結果による父桐壺帝の判断であった)や夢告というものを信じ、必ず実現するものと考えていたことが、物語の展開を特異に感じず、現実にありうることとして受け入たのだろう。その考え方は、今なお日本人の心の奥に潜在していよう。それが現代に生きる私たちに何の違和感もなく読める理由でもある。

 作者が『源氏』を通して当時の人々だけでなく、現代人にも変わらずに語りかけているものを今後も探っていきたいと思う。

底本 本文引用は、日本古典文学全集「源氏物語」による
小学館 昭和45年発行
校注・訳者  阿部秋生
秋山 虔
今井源衛

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